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学問と感受性

繊細で傷つきやすい人は、研究に向いてないと人は言う。

 

あるいは誰かが傷つくのを止める優しさから、あるいは自信を失った当人の諦感から、あるいは嘱望される才能が失われた弔いから、こうした言葉が発されるのを何度も耳にした。

 

確かに、研究の世界は非情だ。

何より、競争が制度化され、自由に研究を続けること自体が限られた人にしか許されない現在の社会で、繊細な人間が生き続けるのは大きな苦痛を伴うかもしれない。

研究という営み自体、いつ結果が出るかも分からない中、どんな意味があってどんな価値を生むかも分からない探求を黙々と続ける、大変に苦しい道のりだ。


凡庸な例えを使うなら、出口があるかないかも分からない、出た先の景色も分からないトンネルを、手元の小さな松明だけを頼りに進むようなものである。

並みの神経でも、きっと滅入ってしまう旅路。

人より多くの感情を経験するような個人にとって、その暗闇の中で一歩一歩を刻むのがいかに容易でないか、問わずとも明らかである。

 

感受性豊かな人は、しばしば「生きづらさ」を膨らませ、それに押し潰されそうになっている。

生きているだけで、他の人より傷つくのである。日々、その傷の痛みを背負いながら歩き、そしてまた新しい傷を受け、歩いているのである。時にじっと耐え、時に信頼できる人に支えられ、時に迷子になったりしながら。

そんな痛みやすい人が研究という辛い世界に進むのを、賢明でないと思う人がいても、全く不思議ではないし、むしろ必然かもしれない。

 

しかし、そういう痛みに向き合っている人こそ、本当は学問に向いてるのではないかと、私は思う。

 

繊細で感受性が豊かであるということは、見方を変えれば、それだけ世界の解像度が高いということである。

解像度が高いゆえに、他の人が気にもしないことさえ目に入ってしまい、しばしばそれに傷つけられてしまう。しかしその逆に、誰も気に留めない小さなことで幸せになったり元気づけられるのも、感受性豊かな人である。

道端に咲く小さな花の美しさ健気さを愛でられるからこそ、そのささやかな命が踏み荒らされることに心を痛めることができるのである。

そんな、他の誰もが素通りしてしまう小さな違いに足を止められる細やかな目が、学問の追究に非常に有意義であることは論ずるまでもない。

 

それは、単に分析の精緻さにつながるゆえだけではない。むしろ大切なのは、例えばテーマの選定や解釈の提示などで、ある種の大胆さを示しうることである。

学問における大胆さが由来するところは様々であるが、そのうちの一つを確実に占めるものに、他者にはない独自の視点があげられるだろう。ユニークな視点に立つからこそ、ユニークなことを言えるというのは、至極当然である。

そして、強い感受性によって世界の解像度が高い人々は、往々にして独自の視点を持っている。それは、同様に感受性が高く繊細な人々の間でも、あたかも違うカメラとレンズを通して覗いた景色に少しずつ違いがあるように、解像度の高さのあり様に少しずつ差があるからだ。

多くの人が持っていない細やかな目、似たような他者とも少しずつ違ったユニークな目。そんな目を持つ繊細な人々には、真理の探究においてその人にしか成しえない長足の進歩を生み出しうる人も少なからずいるはずである。

 

もう一つ指摘しておきたいことがある。それは、より根源的な学問の意味と感受性の問題である。

古今東西、学問の意味は様々に論じられてきた。しかし現在、科学技術という言葉が学問の大きな部分と置き換え可能になっていくとともに、その意味を問う必要性も減ってしまっているのではなかろうか。少なくとも、方々で求められる能書きは、研究の社会的意義や利用可能性等々であり、学問そのものの本源的意味に答える努力は、多くの専門家にとって必然ではない。

 

しかし敢えて誤解を恐れずに言うならば、その意味を鋭く問わずに取り組む学問に、意味などあるのだろうか。
この疑問はこうも言い換えられる。すなわち、その意味を問わずに行う学問に、有限で貴重な人生の時間を充てて取り組む価値があるのだろうか。

このことへの賛否は様々あるかもしれないが、その本源的意味を問うことに学問の価値を担保する重要な要素があると仮定すれば、やはり感受性豊かな人は、学問に真摯に取り組む素質のある人と言えよう。

 

なぜなら、傷つきやすい人は、しばしば意味を考える人であるからだ。人生の意味を求め、行動の意味を求め、情熱の意味を求める。なるほど、そういう人が生きづらいのは必然なのかもしれない。しかし一方で、そういう人だからこそ、本当の意味で学問に肉薄していける。

そして、意味を問う人だからこそ、そこに誰にも奪えない自分だけの理由を見出した時には強い。どれほど傷ついても、それでも追及すると決めた道は容易に裏切らない。それこそ、命を賭してでも、人生を賭してでも惜しくないと思って取り組む。誰よりも弱そうに見えた人が、ここに至ればむしろ、誰よりも強く潔く、学問に身を捧げる存在となるのである。

 

さて、私が知る限りにおいても、いかにも感受性が強い人間が学問の世界に何人もいる。

自身の問題に涙を流し、世界の不条理に揺さぶられ、日々一進一退の研究に頭を抱える。ともすれば、何かの拍子に闇の中に引きずり込まれてしまうのではないかと、こちらが心配になる。そんな傷つきやすい存在である。

 

しかし、私の目には、彼ら彼女らは決して弱い存在には見えない。むしろ、自分が進むと決めた道があるからこそ、そんなボロボロになりながらもまだ立っている、素晴らしく強い人々である。

そんな畏友たちに敬意を表しつつ、彼ら彼女らが時に抱く「自分みたいな人間は研究に向いてないのではないか」という不安に、少しばかりの抗弁をしたい気持ちになったのである。

 

大丈夫だと言い切る根拠もない。自分の言いたいことを補強する思想史やなんかの知識も知恵もない。でも、何か言わないといけない気持ちだけに突き動かされてこんな雑文を書いてしまった。もはや、そうした誰かの気休めにもならないくらいの論旨のまとまらない文章ではあるし、自己満足かもしれない。

 

それでも、最後に改めて強調していっておきたい。どうか、自身を弱いと決めつけないでほしいこと、周りの声に振り回されすぎて自分が進むと決めた道を歩く自信を失わないでほしいこと、誰かがあなたの大切なものを奪うのを良しとしないでほしいこと。

 

全部自分にも言い聞かせつつ、明日からもまた、日々を何とか生きていきたい。

 

※よくわからない唐突な情動と勢いで書きました。後日改稿するかもしれません。